設定自体に無理がある


 様々なサイトを巡り、様々な本を読んだ。乳児院児童養護施設を巡る人々の肉声が中心で、観念的・思想的なものはあまり読んでいないけれど。


 『親的なモノ』を期待してやまない子ども達と、イチ労働者としての職員。どうも、この温度差が、お互いに修復困難な『傷』の元になっているようにみえる。


 入所する子ども達は、もの凄く愛情に飢えている。それは当たり前。幼くして親と離れ、帰る家もない。または手酷い虐待を受けている(家は危険で帰れない)。とにかく基本的な愛情が足りない。慢性的な愛情飢餓。
 その世話を担っている職員達はどうだろうか。普通の『良心的』な職員たち(報道などで度々話題になるような『明らかな虐待(職権乱用)』をする職員は論外)は、特別な人々ではない。就労資格をみると、特に訓練された専門職という訳でもなさそうだ。つまり、何かしら情熱が有ったとしても、あなたや私と同じように家庭を持ち、休日を楽しみ、給料日をささやかに待ちわびている、どこにでもいる人々なのだ。就労時間が過ぎれば、帰りたくて(なにか大事な約束があるかもしれない)気もそぞろになることもあるだろうし、何だかやる気の出ない日もあるだろう。イチ労働者として考えると、だれにでも心当たりがありそうな普通のこと。


 でも、子どもは、たったひとりの『自分』として、自分だけの愛情を求めている。これはだれにも止められないし、止めてはいけない、健全で当然のこと。
 それに対し、自分の生活のある大人が、職場の子ども達に応え続け、24時間365日職場に全人生を捧げ切ることはできない。これも健全で当然のこと。


 だからこそ単純に思うのだ。
 長期間、施設で子どもが暮らすことには無理があると。


 このシステムは、はじめから『愛情』の需要と供給のバランスが取れないようにできている。
 設定自体に無理のある状況に投げ込まれた人々に「君たち、うまくやりなさいよ」と言ったって、「それはないよ」なのだ。見ているだけで苦しさが込み上がってきてしまう。ごくシンプルに。直情的に。


 それでもなお、現実は今日も明日も続く。現場の人々はこの矛盾にさらされっぱなしだ。彼らは誰かの主義・思想の実験台じゃない。あなたや私と等しい、生身の人間なのだ。


 不思議にも里親さんは余っている。生活を賭けて『親代わり』になりたいヒトが、なぜか余っている。「里親制度にはまだ不備が多い」という声も聞こえてきそうだけど、施設養育だって負けないくらい不備だらけ。でも、少なくとも里親宅なら『担当(養育者)』が入れ替わったりしないので、愛憎ともに、特定の人物との関係を築くことができる。そしてなによりも、ほどほどに素晴らしく、ほどほどにアホらしい普通のイチ個人の生活が、里親家庭では毎日送れるのだ。1989年に国連がうたった『こどもに最善の利益』とは、そんな生活の場を提供することではないのだろうか。


 どうか、どうか、1日も早く、逃げ場のない子ども達が、現在の『無理のある設定』から解き放たれますように。こどもに最善の利益を!!




追記:『子どもが語る施設の暮らし( 明石書店)』によると、自ら望んで施設に入所する児童もいるし、『入所して良かった、助かった』と感じている児童もいる。それはある程度大きくなってから入所し(良質の施設に)、帰る家のあるケースが多い。そのような児童は次の様に報告している。『小さいときから施設にいた子はなんかおかしい、すごく愛情に飢えているかんじ』と。特定の人物との絆が全く無い子と、有る子の差は、非常に大きい。


*参考:『決して埋まらない何か。』/『いつまで「究極の選択」を迫られるのか』/『30年で里親委託児童は半減、施設措置児童は微減』/『寝てません・・・。』/『わかっていてもやめられないのか・・・』/『養護施設がなかったらストリートチルドレンがあふれるの?』/『とにかく、体力勝負です!』/『施設職員の勤務形態について(1)』/『施設職員の勤務形態について(2)交代制勤務』(後日リンクは追記します)